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27年前、8月12日。
このことは、ブログにUPするのはどうやろう…と思いましたが、
私のブログ、なのでします。
生々しい表現も出てくるかもしれませんが、ご了承ください。




27年前、8月12日、飛行機墜落事故がありました。
520名が亡くなり、史上最悪の飛行機事故、と今でも言われています。
その飛行機に、私の伯父が乗っていました。
私の母の義兄(伯母の夫)です。
当時、私はまだ中学1年生、それでもその重大さは理解できてました。
私は小さい頃から従姉妹達(伯父の娘達)に仲良くしてもらっていて、
しょっちゅう泊まりに行ってました。
でも小さい頃の私は、今では信じない人が多いやろうけど、
極度の人見知りで、私は伯父が苦手でした。
伯父は仕事で忙しい人でしたが、自分の娘達を心から愛しており、
姪である私の事も同じように…でも寝てる私にいきなり
ジャイアントスィングする可愛がり方って、どうよ(笑)?





そんな伯父が、あの日、あの飛行機に乗っていました。
今でもあの日のことは覚えています。
テレビを見ていたら、ニュース速報が流れ、仕事中の母から電話がかかってきて、
伯父が乗っているかもしれないのでニュースで確認して、と。
そのうち報道番組で、伯母が伊丹空港で不安そうにしている姿が映り。
得体の知れない『絶望』という塊が近づいてくるのが怖かった。
そして、伯父の名前が「搭乗者名簿」の中に入っていた事が
テレビでも流れ、絶望は現実になりました。




でも現実は、絶望なんて言葉では終わらすことはできません。
現場は山奥、それも近くに集落すらない地帯です。
登山道すらなく、救助隊の人達が木々を倒し踏み均した獣道を、
這いつくばって登って行かなければならないような場所でした。
伯父の遺体は比較的きれいな状態で見つかりました。
それでも五体全てが見つかったわけではありませんでした。
真夏の暑い日です。現場から離れたところですぐに荼毘にふされ、
伯父は家に帰ってきました。伯母に抱かれて帰ってきました。
そしてお通夜の時に、不明だった伯父の一部が見つかったとの連絡があり、
翌日、お葬式の最中にドライアイスに包まれて運ばれてきました。
「これで全て揃って送り出せます」と泣いた伯母の姿は
今でもハッキリと覚えています。




それ以来、毎年8月12日には現場へ足を運んでいる伯母。
当時高校生だった娘2人を育て、今では4人の孫もいます。
私の母も当時、現場へ足を運びました。遺体の確認にも立ち会ったそうです。
今の私と年齢の変わらない、当時の母。
27年経った今年、私は初めて行く事を決めた。
私の母も、27年ぶりに行く事を決めた。
極度の人見知りで、どんなにちょっかいかけても喋らずに
伯父を困らせていた私やけど、姪として、行こうと決めました。
私自身、年齢的に節目となる時が近づいてきており、
大人として、一族の人間として、行きたいと思いました。
墜落現場の御巣鷹山は、新幹線で東京まで行き、上越新幹線に乗り換え、
高崎から単線電車で1時間揺られて終点まで行き、
そこからタクシーで1時間以上、その後、登山で約1時間かかるところでした。
片道約7時間弱の移動。しかも最後は登山なのでホンマ大変でした。
今でこそ、ギリギリの所まで車で行けるようになってて、
登山道らしき道もできているけど、それでもかなり細く急な登山道でした。
登りだして少し行くと、当時炎上した木が今でも至る所に残っています。

DSCF1949.jpg


DSCF1940.jpg



この山↓のくぼんでるところ、分かります?
DSCF1944.jpg
飛行機はここをえぐり取って、私がこの写真を撮っている場所に
垂直に激突したそうです。

DSCF1950.jpg
ここが激突した現場。写真は事故後、1年以上経った時のものです。
これが↓現在の同現場。中央に上の写真と同じ石碑が見えます。
石碑の前の赤い物体は、ランドマーク的な赤いレインコートの私の母です。
木々も20年以上経って、たくさん増えました。
DSCF1947.jpg




石碑から少し上に行った所に、当時飛行機が激突した大きな木があります。
ホンマに大きな木ですが、根の部分にまだ焦げた部分が残っています。
この木の中から、新しい細い木がまた生えてきていました。
DSCF1943.jpg




そして↑の木から少し離れた所に、伯父の墓標がありました。
墓標は、いわゆる『遺体発見現場』とされる所です。
伯父のものと並んで、数名分の墓標が同じ斜面にありました。
おそらく、飛行機の座席順で隣同士等に並んでいた方々でしょう。
DSCF1941.jpg
墓標の前に着いた途端、雨が降り出しました。
「のんちゃん(私)が来てくれたから喜んでるんやわ」と言う伯母。
そういう現象って普段信じないけど、ホンマにそうだとエエな。
そうや、来たんや。ごっつ遠くてメチャクチャしんどい道のりやけどここまで来た。
人見知り、という壁に隠れて愛想のない姪だったかもしれないけど、
幼いなりに、伯父から可愛がられていることは分かっていました。
あの時、この場所に今以上に何時間もかけてきた伯母と母。
その時の母の年齢に私ももうすぐなる。
私も大人になったんだ、と思った。



この現場に来ない遺族もたくさんいると聞いた。
今でも辛い気持ちは変わらないし、魂はもう家にちゃんと帰ってるから。
それは私も思っていた事だった。
なんで伯母は毎年、遠く離れたこの場所に来るんだろう、と。
でも、墓標の周りをキレイにして、花や孫達の写真を毎年飾り、
伯父の好きだったビールとお酒をお供えする伯母を見て、何となく分かった。
亡くなった場所に来てるんじゃなくって、
最後に生きていた場所に来てるんだ、と。
大事な大事な人が最後に息をして、最後に家族を想ってくれた場所、
だから毎年、どんなに大変な道のりでも来るんじゃないだろうか。
あの瞬間から止まっていた時間が、ここに来てここに滞在している間だけ
流れる気がするんじゃないんだろうか。





その後、夕方から少し離れた所にある『慰霊の園』で追悼慰霊式に参列。
DSCF1952.jpg
ここには、身元不明のお骨や持ち主不明の遺留品が納められているそうです。
不明なのは、判定できないほど破損していたり粉々だからだそうです。
そして今年になって、また犠牲者のものと見られるお骨が現場から
発見された、という事をこの時に聞かされました。
でも法律の壁で、DNA鑑定ができず無縁仏とされているそうです。
27年経っても、亡くなった方々の存在は消えないし、
残された遺族の想いも消えることはありません。




ローソク供養。犠牲者の分、520個のローソクに点灯しました。
DSCF1955.jpg
今回このことは、単に「飛行機事故は怖い」ということだけではない。
亡くなった方々の無念は計り知れないし、残された遺族のその後は
身内で見てきた者として、筆舌に尽くし難い。
想いは止まる事も消える事もない。
私にできることは、胸を張って生きること。
恥じない生き方をすること。
思いやりを持って、無駄に生きないこと。
当たり前のことかもしれないけど、その当たり前に心から感謝すること。




一夜明けて、私の両足はバキバキの筋肉痛になってたけど、
浅草に行ったことがない、という母の気持ちを考慮し、
また私も見たかったから、ここに寄りました↓
DSCF1964.jpg
浅草からのスカイツリー!伯母も母も喜んでた♪
っていうか私もスカイツリーに大興奮(笑)!
新幹線の時間があったからあんまり余裕がなかったけど暑い中、行ってヨカッタ♪
この夏、ちょっとは伯母孝行・母孝行ができたかな。
私もいい経験したと思ってる。アリガトウ。
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【2012/08/14 21:44】 | 飼い主 | page top↑
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